いつかきっと、目を覚ますその時までは

世界に対して、小説、映画、音楽について、できるだけ正直に語りたいことを語ろうと思います

ディスクレビュー-小袋成彬「Piercing」

宇多田ヒカルに「不世出の天才」と言わしめ、宇多田ヒカル全面プロデュースのもとデビューした小袋成彬。デビュー作「分離派の夏」はジャケットもかっこいいし、最初のトラックがボイスメモの語りで始まるところもおもしろくて、サウンドも革新的、なにより小袋のファルセットボイスが空間を豊かに彩り、ソリッドなサウンドでありながらも自由で広がりのあるアルバムとなった前作。

今作はセルフプロデュースに挑んだ意欲作だ。小袋のトラックはチルポップとしての側面が強いのだが、前作よりもシンセの割合が強まり、さらにビートも強化されている。控えめに鳴らされるTR-808がなんとも心地いいビートを利かせている。チルポップでありながらさらに踊れるトラックになっているのだ。ファルセットボイスは健在でさらに多重的にコーラスを重ねることにより、ゴスペルとしての側面も強まっている。ゲストにラッパーを呼んだりしているあたり、隠れテーマとしてゴスペルを設定したのかもしれない。また自身でもラップを披露しており、小袋のビートになってしまうあたりがなんとも彼らしいというか、やはりラップはどこを強拍として設定するのか、個々人で変わるところが面白い。

彼のメロディは実は非常にフォークっぽい。山下達郎に似たところがあるような気がする。多重コーラスの影響もあると思うのだが、高音のファルセットに隠れて見えないがメロディは実にポップで、語りかけるような歌詞。まさにフォークだ。だから意外と全世代にいいと思ってもらえるアルバムではないかと思う。

やはり小袋のファルセットは絶品だ。優しくて柔らかい毛布に包まれている感じがする。それが多重コーラスとなるのだから音楽的快感は非常に大きい。それもわかりやすく気持ちいいのがいい。普通、ファルセットはここぞ!というときに使うものだが、彼はずっとファルセットのままだ。King Gnuもしかり、ファルセットには人を引き付ける何かがあるらしい。

このアルバムはとにかくリラックスできるときに聴くのがいい。一日の終わりにお酒でも飲むのが一番だ。今晩の晩酌のお供にいかがだろうか?


Nariaki Obukuro - Gaia (Outro)

資本主義である限り地球温暖化はとまらない-楽曲解説「Servant of the Earth」


[初音ミク]Servant of the Earth[オリジナル]

これは23日に投稿した曲なのだが、このブログで取り上げるべきかどうか悩んで、少しためらってしまった。あまりに炎上しそうだからだ。しかし、僕はそういう躊躇をしないことにした。このブログでは好きなことを好きなように書く。そう決めた。

<歌詞全文>

豪雨にはうんざりだ 悲しいニュースは見たくない

それでもこれが現実 僕らに立ちはだかる壁

科学は何も救わなかった お前が地球を破壊したのだ 裏切りの英知などいらないから

大量消費をいますぐやめろ

僕らを待つ未来はあまりに暗い こんな地球を任されてどうすればいいの?

教えてよ 大人たちは先に死んでいく 責任も取らずに去っていく

 

資本家に中指を お前らが自然破壊を先導し金を巻き上げた 血に染まった手だ

資本主義は地球を破壊する このまま火力発電が続けば僕らの未来は破壊しつくされる今変えなければ未来はない

信じたものはいつか砕け悪夢へと変わる 子供たちに未来を残すために

何ができるか考えろ 社会の在り方を変えるなら今 革命の時だ

 

それでも僕らは信じるよ 自然がいつか地球を救うと 科学が変わることを

資本家が死に絶えることを それを成し遂げた先にだけ未来はあると

 

<解説>

これはグレタ・トゥーンベリさんに影響を受けて作った曲だ。グレタさんは言う。

「今すぐに有効な対策手段を。それができないなら社会の在り方そのものを変えるべきだ」

この曲はまさにこの思想を拡大解釈したものである。

産業革命以降、人類は地球を破壊し続けた。京都決議を踏みにじり、パリ協定を破棄してまでつくりたいものとはなんだろう?結局は資本家が金を巻き上げたいだけだ。

資本主義という構造は市場原理という統治システムが優れて画期的であり、そしてがんばればがんばるほど報酬がもらえるというごくごく単純で、しかし夢があり、社会主義とは違う、心理構造に基づくものであったためにここまで人類に浸透した。しかし、現在はあまりに余剰な生産が多い。食べ物の大量廃棄と同じように低コストで安価な商品が好まれ、どんどんつくられてはすぐに壊れ、捨てられていく。人件費と自然環境を犠牲にしてまで受ける恩恵なのだろうか?

資本主義というのは構造上、とにかく生産し続けなければいけない。だからこそ、70年代に日本でも公害が社会問題になっても生産し続けてしまった。その手を止めることは科学をとめることと同義だからだ。科学技術を発展させるためには研究も必要だし、なによりそれを実現する工場が必要だ。だからこそ、科学はここまで発展を遂げた。いまやAIに仕事を取られるのも嘘ではなくなってきた。

しかし、その代償はあまりに大きかった。3.11の福島第一原発事故もそうだし(原発の存在自体が問題)、7月豪雨、台風19号、二年連続の酷暑と挙げればきりがない。このままでいいのか?いいわけがない。ではどうすればいい?

ここで最初のグレタさんの問いかけに戻る。このまま資本主義を貫けば科学は発展し続けるだろうが、それとともに自然は汚染され続け、温室効果ガスは増え続け、平均気温は上昇し続けるだろう。だったら、社会の仕組みごと変えるしかない。

僕が提案するのは、”資本主義から社会主義へ”だ。

まず、社会主義について説明する。社会主義では原則、私有財産を認めない。国が国民に対して直接仕事を与えるのでそのノルマを達成すると報酬がもらえる。つまりは完全配当性だ。全国民の総生産(GDP)を等分配し、貧富の差をなくす、という思想だ。これなら失業者も発生しない。まさに理想郷だ。

これをいち早く実現させたのがソ連なのだ。そしてソ連は1989年に崩壊した。財政破綻だった。原因はなにか。”ノルマ”だ。ノルマを達成したらそれ以上仕事をする必要もなく、報酬が増えるわけでもないので無駄働きになってしまう。だから、ソ連の生産性はことごとく落ちた。人類初の人工衛星打ち上げに成功したのはソ連だが、アポロ11号計画でアメリカに大きく後れを取り、ソ連の技術力はどんどん停滞していった。

それを受けて中国は部分的に資本主義を採用した。資産の私有を認め、ノルマ以上の働きをした場合、それに対して支払われた報酬は私有していいことになっている。つまり社会主義と資本主義のハイブリッドだ。以降、中国は発展を続け、現在は5Gを作り上げたハーウェイをはじめ、世界企業が軒を連ねる、大市場、バブル経済が成り立った。

社会主義は資本主義と違って生産量を国が調整できる。これは資本主義にはない特性なのだ。この機能を使って生産量をコントロール下に置けば、温室効果ガスの排出量も調整できる。中国と同じように資本主義と社会主義のハイブリッドの仕組みを使えば、ソ連のような崩壊も起こさない。

今、地球に対して人類ができること。それは余剰生産をやめることであり、生産量を制御することなのだ。

しかし、社会主義になれば科学技術の発達は遅れるだろう。それは間違いない。しかし、これ以上地球を破壊するわけにはいかない。優先するべきは豊かで便利な未来ではなく、自分たち人類が生き残れる土壌を少しでも多く残すことなのではないか?このまま科学技術が発展していった先になにがあるんだ?そこにはもう荒廃した大地しか残されていないだろう。科学技術の発展を止めてまで、わたしたちは生き残れる道を選ぶべきだ。

先日、この曲をfacebookで紹介したところ、すいぶんな長文で、「温室効果ガスと地球温暖化の因果関係はあいまいである」みたいなコメントが来た。僕はあきれ返ってしまった。そんな悠長なことを言っていられるのか?と。実を言うと地球温暖化の原因はいまだに特定できていない。だから、温室効果ガスと地球温暖化の関連があいまいであるというのは同意できる。でも、じゃあ、もし、因果関係があった場合にあなたは責任をとれるのか?今、行動をはじめなければもう遅い。後戻りできないところまでもう来ている。なのに、そんなあいまいな憶測でこのまま自然破壊を繰り返していいと言えるのか?

大人の危機感と若者の危機感の程度に大きな開きがあると思う。大人はどうせ自分が死ぬころにはなんとかなっているだろうみたいなことを言いだすのだ。若者の恐怖感はそんなものではない。3.11以降の世界はいつ滅んでもおかしくない世界になった。あのとき、わたしたちは世界の終わりを、文字通り目にしたのだから。そして、地球の危機がやってきた。わたしたちは明日目が覚めたら死んでいるかもしれないと思っていつも生きている。それくらいに現実が不確かなのだ。そしてそういう世界をつくりだしたのは大人たちだ。そして大人たちはなにもせず、現状維持でいいと思って適当に流して、すべての責任を私たち若者へ押し付けようとする。

逃げるな。考えろ。今、自分が未来のために何ができるか、懸命に考えるんだ。現実を見ろ。今そこに沈みゆく島がある。豪雨で氾濫した川により家を失った人々がいる。彼らのためになにができるか、考えるんだ。視線を逸らすな。適当な理想論で逃げられると思うな。わたしたちは未来を変える。地球を、人類を、救ってみせる。その邪魔を、決してしないでほしい。できれば協力してほしい。傍観なんてやめてほしい。自分も当事者だと覚悟してほしい。それが願いだ。

秋田にイオンは必要か?

今現在、秋田市ではイオンが外旭川に大型ショッピングモールの建設案を進めている。秋田市にはイオンが御所野と楢山と土崎にあり、特に御所野のイオンは県内最大規模のイオンモールである。このイオンのせいで秋田駅周辺のいわゆる中央市街地は死に絶えた。

先日、衝撃のニュースが入ってきた。秋田駅のすぐ近くにあるショッピングモールFONTEの地下一階の食料品売り場が21年2月をもって撤退するのだそうだ。となりの西武地下にある食料品売り場は継続されるのだが、西武の食料品内場はスーパーのような感じではなく物産店のほうが近いので、正直、代替はできないだろう。さて、秋田駅周辺に住む人はどこで買い物をすればいいのだろう?近くというと中央市場くらいしかないのではないか?いわゆるスーパーと呼ばれるものは秋田駅周辺には見事にない。

最近、秋田駅周辺には、おそらく市が投資したのだろう、高層マンションがどんどん建設されている。どうしても秋田駅を見捨てられないのだろう。必死になる気持ちはわかるが、それらのお金はわたしたちの血税だ。果たしてそんな無理な投資をして還ってくるものがあるだろうか?

エリアなかいちの開発も結局は失敗に終わった。なかいちはほとんどの店が撤退し、現状は美容皮膚科と売れるのかもわからないような物産店が並ぶ始末だ。秋田県立美術館の再建だってそうだ。安藤忠雄が設計しただけあって建物は立派だ。しかし肝心の中身がない。県立美術館には藤田嗣治が残した「秋田の行事」という超大型の壁画といってもいいくらいの大きな絵画があるのだが、ほぼこのためだけに建てたという感触がぬぐえない。二階にもギャラリーはあるのだが、あまりに狭くて飾れるスペースがない。何回か個展を見に行っているが毎回展示作品が少なくて消化不良に終わる。それよりだったら普通に千秋美術館のほうがギャラリーは広い。

イオンができたから中央市街地が衰退した。うん、その意見は正しい。では、なぜ、”中央市街地”ではならないのか?をもう一度考えてほしい。

僕は通院の都合上、週に一回は必ず秋田駅前に行くのだが、土日に行っても若者とすれ違わない。8割くらい高齢者だ。

しかし、イオンに行くと違う。子供からお年寄りまで、カップルから家族連れまで、全世代がいる。そりゃ当然だ。イオンには映画館があるし、ショッピングモールは一日で回れないくらい広いし、フードコートも充実していて、食料品も買えて、コスメも買えて、楽器屋もある。とにかく一日退屈することがない。

それに比べて秋田駅前はどうか。映画館はある。だが、どれも人気のない洋画ばかりで、そもそも東宝はイオンにすべて取られてしまうので松竹と洋画とそれ以外しかおけない。しかも最近は松竹も取られつつある。FONTEははっきり言うがお年寄り向けで服なんて買うところがない。OPAは比較的ましだが、まだ出来て二年も経っていないのにどんどん閉店していくのはどういうことなのか。そんなこんなで秋田駅前で時間をつぶすのはかなり難しい。家族連れにはつらいだろう。それだったら車を出してイオンに行くよ、とこうなるだろう。

正直、もう市政が中央市街地活性化を達成することはないと思う。だって民間でやってもうボロボロなんだから。だったらここで見限る覚悟は必要だと思う。いったいいくつの失敗を繰り返して、いくらの血税を無駄にしたんだ?真剣に答えてほしい。

市政はとことんイオンを嫌っている。イオンが秋田をダメにしたと思っている。しかし、本当にそうか?あなたたちはイオンで楽しそうに過ごしているカップルや家族を見てそれを言えるのか?イオンがなかったら、秋田は旧来型の商店街を維持していただろう。しかし、そこに何の価値がある?商店街だったら車で来た人はどこに駐車したらいいんだ?有料駐車場に置けというのか?今まで通り古い映画館で古い映画や売れない映画ばっかりやってれば満足だとでもいうのか?

わたしたちは旧来型の商店街市場がいらないと思ったから、そう選択したからイオンに行くのだ。それにお金を投資してどうする。

秋田にはイオンが必要だ。中央市街地活性化は今後一切やめていただきたい。絶対失敗する。それよりだったら外旭川にイオンを建てていただきたい。御所野は交通が不便なのだ。僕は運転が苦手なのでバスで行くのだが、立地的に乗り継ぎが発生するし、運賃は往復2000円かかるし、運行時間もどんどん減っている。イオンがシャトルバスを火曜、日曜、祝日に運行しているのだが、これがあまりにも混む。ほとんどが学生で、一度夏場に乗ったのだが、明らかに定員オーバーな、ラッシュ時の山手線か、という混み方だったのでもう利用していない。外旭川が無理なのなら運行本数を増やすなり、せめて四ツ小屋駅からシャトルバスを運行してもらえないだろうか?最寄駅から徒歩三十分はきつい。

別に一つの民間企業がもうかったっていいじゃないか。イオンが死ぬ気で努力している証拠なんだから。商店街は結局イオンの利便性に勝てなかっただけだ。それに対して不平不満を言って県民の利便性を低めるようなことを言ってもらっては困る。そんな頭の悪い議論はいますぐやめてほしい。

私的2019年アルバムトップ10-総評

さて、私的2019年アルバムトップ10の発表が終わった。

ここで一つまとめて、一年の音楽を総括をしてみようと思う。

1位ヨルシカ「だから僕は音楽をやめた」「エルマ」

2位サカナクション「834.194」

3位BUMP OF CHICKEN「aurora arc」

4位King Gnu「Sympa」

5位ビリー・アイリッシュ「WHEN WE ALL FALL ASLEEP,WHERE DO WE GO? 」

6位ずっと真夜中でいいのに「潜潜話」

6位Co shu nie「PURE」

7位UVERworld「UNSER」

8位椎名林檎三毒史」

9位Official髭男ism「Traveler」

10位あいみょん「瞬間的シックスセンス

 

今年は何といっても10年代最後の年だ。ディケイド理論といって文化史では9のつく年になにか大きな変動が起こるとされている。1939年は第一次世界大戦の始まった年だし、1989年にソ連は崩壊した。そして、2019年はやはり混迷の年だった。

10年代を総括するなら、それはエゴイズムの衝突の時代である、と言えるだろう。SNSの普及に伴い、個人のネットでの発言力が増し、どんどん自己発信的な情報が増えていったのはよかったのだが、そのうちに情報が過激化し、中には他人の誹謗中傷を平気で行う人もいる。他人のエゴと自分のエゴとのぶつかり合いが過激化し、炎上してしまうケースが増えた。こんなこと、00年代には考えられなかったことだ。そんな息苦しい社会が形成されていく中で突出した才能が開花していった。

今はもうDTM宅録でつくるアーティストなんてのは珍しくもなんともない。20代の人はたいてい、10代のころからwindowsフリーソフトMacのGarage Bandで作曲を覚え、その延長線上にプロデュースへとつながっていった。また、こういったDTMアーティストとSNSは切っても切れない関係にあり、アーティスト個人の発信ができるようになってはじめてこうしたアーティストは日の目を見るようになった。彼らの視線は常に社会の動向を見つめるものだった。鋭い視線、切り口で社会のことを歌い、時に悲しみ、時に歓びを共有した。

SNS社会はこうした功罪を生み出したと言える。

ビリー・アイリッシュはおそらくグラミー4冠に輝くだろうが、彼女もDTMだ。デビューのきっかけはSound Cloudに投稿した曲がヒットしたから。その時、ビリーは13歳だった。

海外に話を向けると、ことにロックシーンはさめざめとしていた。10年代前半はEDMが大流行していたし、後半はヒップホップの流行でロックは完全に衰退してしまった。ロックは死んだとなんども言われているが2019年ほどロックが死んでいた年はない。

10年代後半になって海外情勢は悪化していく。トランプ政権の猛威、北朝鮮の挑発、イギリスのEU離脱問題、イタリアの財政崩壊、地球温暖化、あげつらうだけで大変だ。そして一番大きかったのが白人警官による黒人の射殺。これがきっかけでヒップホップに火が付いた。白人、黒人、アジア人、人種問わず、みんながラップを始めた。70年代に社会からはみ出した者の救いがパンクムーブメントだったように、今の若者がなにかを表現したいなら真っ先にやるのはラップかDJだろう。

しかし、僕は今のヒップホップシーンはちっとも面白いと思わない。今の主流はトラップというサブベースがズーン、ズーン、と重たく響き、そこに軽い、語るようなラップが乗るジャンルなのだが、僕も好きなエミネムカニエ・ウェストのような迫力やテクニックやトラックの妙というものは存在しない。みんな同じ音を出している。個性もへったくれもない。ドレイクとポスト・マローンはトラップの始祖みたいな人だから堂々としていていいと思うが、そのサウンドをただまねた人のなんと多いことか。

僕は勝手にEDMショックと呼んでいるが、2016年あたりからEDMは急激に失速し、当時は有名だったプロデューサーが今は何をしているかわからない、ということが多い。きっと今のトラップのアーティストも3年後には消えているだろう。

ストリーミングサービスの登場で音楽業界は大きく変動せざるをえなかった。リリースの形態も変わったし、アルバムの意義も変わった。日本ではCDをまだレコード会社は売ろうとしているが、3年もすれば消えるだろう。日本ではレコード会社が音楽業界に対してあまりに支配的だった。しかし、CDがなくなることでレコード会社の存在意義がなくなる。おそらく今後、レコード会社はアーティストのマネジメントやキュレーションなど、今、事務所が担っている役職を行うことになるだろう。そうすれば、あまりに保守的な日本の音楽業界のブレイクポイントになるかもしれない。

邦楽に目を向ければ次世代を担う若い世代のアーティストが増えた。特にここ数年。あいみょんはその筆頭だし、Official髭男ism、King Gnuが若手では強い。それぞれに独特のサウンドや個性があるのが特徴で、ストリーミングによって似たようなアーティストは減ってきて、突出した個性のあるアーティストがブレイクしているように思う。

そして、現代の邦楽の金字塔に立つのが米津玄師だ。彼はまさに現代のカリスマと言っていいだろう。出す曲すべてがヒットし、プロデュース曲ものきなみ大ヒット。彼もインターネット世代、いわゆるニコ動から出てきたアーティストであり、当初は尖ったサウンドだったのが、どんどんポップになり、やがて日本らしさの追求として歌謡曲を志向するようになり、そこで生まれたのが「lemon」だ。lemonがどんな世代にも浸透したのはそこにかすかに歌謡曲のエッセンスが入っているからだ。そこに日本らしい郷愁が隠れている。

最近のアーティストはとにかく売れることにこだわる。なぜなら、売れなければ何もできないからだ。自分の音楽を気に入ってくれるかもしれない人に音楽を届けられないし、ライブも小規模にしかできない。なにもお金儲けが目的なのではない。アーティストとしての可能性の追求、ということが根底にある。いつまでだって300人キャパのライブハウスでライブしていたくはない。いつかは武道館に立ちたい。さいたまスーパーアリーナだって。SEKAI NO OWARIはデビュー当初は尖った歌詞が印象的だったが、どんどんポップ化していき、最終的に国民的バンドとなる。そして、今年、「Eye」と「Lip」という二つのアルバムをリリースし、Lipはいつものセカオワ、主にシングル曲なのだが、Eyeは徹底したダークな世界観を追求しており、音も打ち込みが増えた。そして最新のツアーではEyeの曲しかやらない、シングル曲は一切演奏しないという衝撃的なスタイルで観客を唖然とさせた。売れればあとから好きなことはいくらでもできる。でも、これは一度売れたからできたのだ。もしデビューアルバムだったらEyeは正当な評価を得られないだろう。

20年代はいったいどんなカルチャーが生まれるのだろう。僕は予言しておくが、まず間違いなく10年代の反動が来るだろう。エゴイズムから内省的なカルチャーへと180度変わる。文化史というのは一方に振れると揺り戻しが極めて大きいのだ。SNSTwitterやLINE文化は薄れてくるだろう。実際、10代はSNS疲れを起こしている。なら使わらなければいい、と気づくのはそんなに遅くないだろう。音楽もEDMやヒップホップの反動で、今、チルポップやエレクトロニカとされている静かな音楽がはやるかもしれない。実際、音楽シーンはアンダーグラウンドがメジャーグラウンドになる、の繰り返しなので絵、また90年代のようにテクノやブレイクビーツがはやってもおかしくない。

できることなら、20年代は穏やかな10年になってほしい。みんな社会問題や環境問題、プライベートに踏み込むネット問題に辟易しているのだ。そういうカルチャーを築くのは間違いなく音楽だろうし、個性豊かな新人アーティストが先陣を切って新たな10年を切り開いてくれるだろう。

私的2019年アルバムトップ10-[1位]ヨルシカ-「だから僕は音楽をやめた」「エルマ」

さて、栄光の第一位だ。

このアルバムはザ・ビートルズの「サージェントペパーズロンリーハーツクラブバンド」やザ・フーロックオペラ「トミー」からはじまるすべてのコンセプトアルバムの頂点に君臨する作品だ。これを超えるコンセプトアルバムはもう出てこない。もし作れるとしたら世界でもそれはヨルシカのみだ。

このアルバムは「だから僕は音楽をやめた」と「エルマ」が一続きの物語として成立している。そして初回限定盤には手紙と手帳という、二人の主人公が書き記した日記が封入されていて、そこで物語が展開される。

「だから僕は音楽をやめた」はエイミーという青年が音楽を志して都会へ行ったものの、成功できず、音楽をやめる決意をし、友人であるエルマに手紙を書く。

そして、「エルマ」はエイミーからもらった手紙を読んだエルマがエイミーに影響され、作った音楽、というように明確なストーリーがそこに存在する。

エイミーとエルマの存在感は絶大だ。歌詞がセンシティブに彼らの苦悩を描き出す。そしてそれらは現代の私たちの傷跡をぴたりと言い当てたもので、虚無感に支配され、それでも自分の目指したいものを貫きたい、しかし、それがどうしてもできない、そんな苦悩に満ちた歌詞だ。

僕は今回のレビューにあたって、エイミーとエルマの関係性について記したいと思う。

エイミーとエルマは同郷で、ある日エルマが偶然入った喫茶店で必死に歌詞を書くエイミーと出会い、一緒に音楽を始める。しかし、エイミーはエルマの才能に嫉妬してしまう。自分より遅く始めたのに、自分よりもうまい。そのことに絶望し、彼はエルマのもとを離れ、しばらく音楽活動に専念するが、結局、音楽をやめてしまう。「だから僕は音楽をやめた」では、音楽をあきらめたことをすべてエルマのせいにしてしまう。君が現れなければ音楽を続けられたのに、君の音楽がなければまだ歌えたのに、そんな心情が見て取れる。このアルバムは実は時系列が逆で最後に「だから僕は音楽をやめた」が入っているのだが、インストの日付を見ると、二曲目の「藍二乗」が最後の曲だとわかる。音楽をやめた後、エイミーはバイトをしながら詩を書いたり小説を書くが、いつも書くのはエルマのことだ。それだけ彼にとってエルマは大切で、そして憎むべき対象だった。エルマのことしか書く気がしなかった。そして、最後、「藍二乗」で彼はこう言う。

「藍二乗」

”エルマ、君なんだよ 君だけが僕の音楽なんだ”


ヨルシカ - 藍二乗 (Music Video)

そして、エイミーの物語はここで終わる。

続きはエルマが記している。

エイミーの実家にある日突然、木箱が届く。エイミーがいなくなってしばらくたった後だった。そこには膨大な手紙と写真が収められていた。(これは「だから僕は音楽をやめた」の初回限定版で再現されている。届いたのが木箱の形をした大きな箱で、中を開くと手紙がいっぱい詰まっていて、本当にエルマの気持ちになれた)。彼は「藍二乗」のあと、昔住んでいた北欧の町をめぐる旅に出ていた。そしてエルマはそこに彼がいるかもしれないと、写真の場所を巡る旅に出る。それはまさに”巡礼”なのだ。

しかし、エルマはエイミーが突然去ってしまったこと、そして、音楽をやめたことを自分のせいにされたことにとても傷つき、怒ってもいた。やり場のない怒りの感情は「神様のダンス」によく表れているし、「心に穴が空いた」とも歌っている。

エルマはその旅の模様を日記に記す。エイミーはエルマにとって神様のような人だった。自分に音楽を教えてくれた人。自分を変えてくれた人。だけど、その人はもういない。その人の影だけをこうして旅して追っている。エルマは自分はエイミーを模倣したに過ぎないと歌う。だから、エルマの一人称は女性であるにも関わらす”僕”だ。それはエイミーになりたかったから。だから、自分の歌はエイミーの歌にはかなわないし、私の歌は偽物に過ぎないのだから、もう一度会って、説得したい。そんな気持ちもあったのだろう。

エイミーとエルマの関係性。これが実に美しい。”恋”なんて単純な言葉では言い表せない。そこには羨望も嫉妬も憎悪も友情も愛情も慈しみも愛おしさも尊敬も崇拝も存在している。とても一言では言いあらわせない。

そして、エルマは「心に穴が空いた」でこう歌う。

"今ならわかるよ 君だけが僕の音楽なんだよ、エイミー"


ヨルシカ - 心に穴が空いた (Music Video)

これは「藍二乗」と同じことを歌っている。二人とも同じ感情を持っていた。

しかし、「ノーチラス」で衝撃の事実が明らかになる。それはどうか、MVで確認していただきたい。警告しておくが、誰もいない場所で見るように。きっと泣き崩れてしまうから。


ヨルシカ - ノーチラス (OFFICIAL VIDEO)

たぶんもう入手できないと思うが、特典についてきた手紙と日記をもってしてこの物語は完結する。そしてその筆致のなんたる鋭いことか。もはやこれは小説でしかない。そしてそこに音楽が入ってくるのだから、これはもはやオペラに近い。ザ・フーが目指したロックオペラ。それがここ極東の地で最高の形で結実した。

これよりすばらしいコンセプトアルバムはもう、ヨルシカにしか作れない。今後、こういったストーリー性の強いコンセプトアルバムが増えるだろう。思えばカゲロウプロジェクトもその一つだった。しかし、ここまで芸術的な完成度と音楽的な完成度と商業的な成功を成し遂げたものは今まで一切存在しなかった。今後、このアルバムは一種の特異点となるだろう。ここからBUMPのようなシングルをどんどんリリースしていくシングルコレクション派とサカナクションやヨルシカのようなコンセプトアルバム派が分裂し、アルバムは二極化していく。そして、もちろん、この作品も模倣品も増えるだろう。しかし、それは模倣でしかない。本物はヨルシカにしかつくれない。真似をしようとしている時点で原典を超えようなどとは思うな。

ストリーミング世代はアルバムという感覚が薄い。みんなプレイリストで聴くからだ。自分でプレイリストを作る時点でアルバムは価値をなくしてしまう。それを知ったうえで、アルバムを一つの作品として昇華させる行為、それは原点に還るということだ。もう一度LPの時代へ。しかし、この作品は広く若い世代に波及した。それはこの作品のパワーがそうさせたのだろうし、ストーリーがあるにもかかわらずメロディとして完成されたものを作るという、コンポーザーのn-bunaさんの腐心によるものだ。

そう、まだアルバムは死なない。これからもアルバムは一人のアーティストにとって大きな意味を持ち続けるだろう。1年や2年、必死にスタジオにこもって作ったものなのだ。そしてそのアルバムを評価する姿勢にこそ、音楽への誠意が表れるというものだろう。このアーティストはこのアルバムを通してなにを伝えたいのか。いつも聞き流している曲を、作業の手を止めて真剣に聴いてみてほしい。きっと大きな発見があるはずだ。

もう一度、アルバムをデッキに入れる時のワクワク感を思い出させてくれたヨルシカに僕は感謝を伝えたい。こんな素晴らしい作品をつくってくれてありがとう。確かに受け取った。これからもアルバムは価値あるもので、音楽は聞き流すものではなく、生活に密着した、確かな重みをもったものであり続けるだろう。そう思えたことがただただうれしい。20年代がワクワクする。

 

私的2019年アルバムトップ10-[2位]サカナクション-834.194

サカナクションのアルバムを聴くとき、あとちょっとなんだけどな、という思いがぬぐえなかった。シングル曲はもちろんいい。だがアルバム曲が微妙だったり、全体で聴いたときにまとまりに欠ける、ということが多かった。

しかし、今回のアルバム、「834.194」でその認識を覆された。

このアルバムは2ディスクによるコンセプトアルバムである。

ディスク1が「東京」編であり、ディスク2が「札幌」編と題されている。

そしてこの二つのディスクが対になってこのアルバムは構成されている。収録曲数も一緒だし、最後の「セプテンバー」に東京verと札幌verの二種類がそれぞれディスクの最後に配されていることにもそれがよくあらわあれている。

山口一郎はサカナクションは極めて戦略的にシーンと戦い、勝ち残ってきたバンドなのだ、と言う。1stと2ndは実はほとんどフォークソングに近いアルバムで、現在のようなシンセがばりばりに登場するような曲はほとんどなかった。(当時から踊れることにはこだわっていだが)しかし、それが3rd「シンシロ」によって一変する。シングル「セントレイ」はこれでもか、とシンセサウンド、EDMサウンドを押し込んだぶちあがるパーティーソングであり、そしてロックソングでもあるところが新しくてウケた。こんなサウンドを2009年に完成させていたこと(まだEDM前夜だ)、そしてこれをバンドでやることにみんなが衝撃を受けた。


サカナクション / セントレイ

ここからサカナクションの快進撃が始まる。まず、シングル「アルクアラウンド」のヒット。これはMVの完成度も話題になってマスに浸透した。その後もシングルのヒットが連発する。「アイデンティティ」「ルーキー」「バッハの旋律を夜に聴いたせいです。」、そして「夜の踊り子」が決定打になった。

2013年アルバム「sakanaction」が大ヒットし、ここで国民的バンドとして名をはせるようになる。

そして今回のアルバムは実に6年ぶり、「sakanaction」以来のアルバムなのだ。

なぜ、ここまで時間がかかったのか?

そこにはシンセサウンドに代表されるいわゆる”サカナクション”的な曲はもうやりきったという感覚があり、もう一度、1stや2ndなどの札幌で町スタで曲作りをしていたフォーキーな曲をやりたい、という思いがあったようだ。「834.194」は現在の東京のスタジオと札幌の町スタの直線距離の長さなのだそうだ。その影響で「グッドバイ/ユリイカ」「さよならはエモーション/蓮の花」はシングルカットされたのだがこれが売れなかった。そこでバンドは迷うことになる。ファンは「夜の踊り子」のような曲を求めている。だけどわたしたちは「ナイトフィッシングイズグッド」のような曲をやりたい。

結果、バンドは両方やろう、ということになる。シングルでは大ヒットした「新宝島」などいわゆる”歌謡”+”テクノ”を推し進め、アルバムではディスク2に収められるフォーキーで原点回帰の曲を作るようになる。


サカナクション / 新宝島 -New Album「834.194」(6/19 release)-

そして、この両方の方向性をアルバムに押し込めるなら2ディスクにせざるを得なかった、ということなのだ。

ディスク1は上京してから作為的に、戦略的に音楽を創ってきた自分たちの集大成、そしてディスク2は町スタで夜にこもって曲を作ったいた時代に立ち返ってもう一度フォーキーなものをやろうという、自分たちのなかのピュアな、純粋な音楽を集めたものだ、と山口は語る。

サカナクションはだれもが認める国民的バンドになった。しかしその裏では血のにじむような努力があったし、常にバンドは迷い、悩み、考え続けてきた。そして泳ぐ魚のようにシーンを身軽に軽々とジャンルの垣根を超えることに意義を見つけ、一度自分のサウンドを捨ててまで成功することに執着した。近年の売れているバンドは売れることに執着する。これは悪いことではない。だって、売れなければ誰も聴いてもらえない。武道館にだって立てない。自分たちの可能性を広げるには売れるようにある種、作為的にならなければならない。しかし、そこで失ったものをサカナクションはここで一度回収しておきたかったのだ。

東京編と札幌編、この二つは見事に対をなしていて、コンセプトアルバムとして新しく、完成度が高い。特に札幌編の情緒豊かなスローバラードが素晴らしい。みんなが好きなのは東京編だろうが、玄人なら札幌編を選ぶだろう。

山口は言う。ストリーミング全盛の時代に合ってアルバムの意義はなくなりつつある。だから、これがサカナクションにとっての最後のアルバムになるかもしれない。

これを最後に”アルバム”という一つの作品に区切りをつけ、今後はシングルをどんどん出していく方向に舵を切るということなのだろう。

しかし、このアルバムは本当に傑作だ。後年になって大きな評価を得るだろう。バンドのエゴと自分たいのエゴが対になった、素晴らしいアルバムだ。

今後、サカナクションがどういう活動に打って出ていくのか、今から楽しみでならない。一度、サカナクションは成功してしまった。成功した後、人々はどう目標を立てればいいのか。そういう一つの答えでも、今作はあると思う。また、サカナクションは新たな目標を見つけ、歩み始めるだろう。10年後にはまったく違うサウンドになっているかもしれない。でも、それも含めて、サカナクションだ。


サカナクション - さよならはエモーション (MUSIC VIDEO)-New Album「834.194」(6/19 release)-

私的2019年アルバムトップ10-[3位]BUMP OF CHICKEN-aurora arc

ここで王者の登場である。来年でデビュー20周年を迎えるBUMP OF CHICKENだ。

昨日の最後に上位三位はアルバムの意義を問いただす作品だと書いた。このアルバムは今までのアルバムの在り方を根本から覆す破壊力を持っている。

まず、ほとんどの曲が既発曲であること。実は新録曲はM5:ジャングルジムの一曲しかない。しかし、アルバムを通した聴いた時に、きちんと”作品”を聴いたという実感を持てること、それが新しい。

BUMPは「Butterflies」以降、立て続けにタイアップを取り、そのたびに配信限定シングルとしてリリースしてきた。まさに現代的な音楽の発表方法である。洋楽では近年、アルバム曲を小出しにシングルとして出すことでリスナーに次々と新曲を届け、シングルが十分に耳になじんだところでアルバムが出る、そうするとリスナーは聴きなじみのある曲ばかりだから当然、アルバムはヒットする、と、こういう方程式のリリースが標準化された。アーティストにとって致命的なのは音源の未発表期間が長くなることなのだ。リスナーからしてみれば沈黙しているようにしか見えない。アーティストは必死にアルバムを作っているのだが。この手法はそういう矛盾を解きほぐすのに一躍買い、アーティストとリスナーとのつながりを密にした。よりSNSで拡散されやすいリリースの仕方だ。しかし、これを実践している邦楽アーティストは今までいなかった。これをはじめてやって、成功してのけたのがBUMPなのだ。

作曲した時期はまったくバラバラだ。「アリア」は2016年8月にリリースされている。また、この三年間、シングルは2018年11月の「話がしたいよ/シリウス/Spica」の一枚しかリリースされていない。ほとんどが配信リリースだったのだ。

こうした異色の制作方法がとられた「aurora arc」だが、ちゃんといつものBUMPのアルバムなのだ。

BUMPは「ギルド」で人間をやめたくなったと赤裸々に歌い、「オンリーロンリーグローリー」で内省的な孤独からの脱却を歌い、「カルマ」でもう一人の自分との和解を歌った。BUMPの歌詞は個人主義が強まりだした00年代のカルチャーを代表するものであり、BUMPがいたからこそ今の10年代カルチャーがあると言える、とても重要なファクターなのだ。

それが、今回はどうだろう。

「記念撮影」

”ねぇ きっと迷子のままでも大丈夫

僕らはどこへでも行けると思う

君は知ってた 僕も気づいてた

終わる魔法の中にいたこと”


HUNGRY DAYS × BUMP OF CHICKEN 「記念撮影」フルバージョン

なんとも祝祭に包まれた歌詞だ。もう自分の殻の中に閉じこもっていた藤原基央はいない。彼は、「メーデー」で「カルマ」で「ray」で、そしてファンのみんなに支えられて、自分を奮い立たせて、自分自身に立ち向かった。そして、普通の、一人の人間としての幸福を手にした。BUMPが尖った歌詞、内省的な歌詞を書くのはもうないのかもしれない。だって、彼はちゃんと救われたんだから。そこにあるのは「話がしたいよ」みたいな普遍的でポップな歌なのだ。

だって、もう「ベイビー アイラブユーだぜ」って言っちゃったんだもん!ついに!藤くんが!アイラブユーって!メンバーもびっくりしたって言ってた。だってあの藤くんが!


ロッテ×BUMP OF CHICKEN ベイビーアイラブユーだぜ フルバージョン

しかし、この曲、「新世界」は文字通りBUMPにとっての新世界を描く曲なのだが、藤原基央は「この曲は朝起きて、君と会えるのはもう今日で最後かもしれない、だから、終わりの歌だから、じゃあ”アイラブユー”って伝えなきゃなって、自然と出てきたワードなんだ」とインタビューで語っていた。この歌詞も藤原の中では今までの”終わり”や”孤絶”を歌ってきたBUMPの世界の延長線上にある、ということだ。

しかし、このアルバムを一番最初に聴いた時、僕は思ってしまった。「ああ、藤くんはもう報われてしまったんだな。救いを求める人じゃなくなったんだな」と少し寂しかった。彼はもう幸福な世界の住人なのだ。孤高の世界の住人ではなくなった。彼は21世紀に残る孤独を詠う詩人だった。しかし、これからは新たな道を歩むんだ、という決意をひしひしと感じる。

「ray」で藤原基央は”大丈夫だ あの痛みは忘れたって消えやしない 大丈夫だ この光の始まりには君がいる”と歌っている。「カルマ」で出てきたもう一人の自分。彼にきちんをお別れをしたのだ。傷跡は残るから、君がいた歴史は消えない。だから、もう自分は救われていいんだ。そういうメッセージを感じる。そして、その先へ彼は踏み出した。だから「アイラブユー」と歌えた。

僕らも、彼の生きざまに共感したように、彼を目印に、灯台にして、幸福な道を選ぼう。自分で自分を不幸にすることはない。僕らは、変われる。いつだって幸福の道を歩み始めることができる。そう、訴えているように聞こえてならない。