いつかきっと、目を覚ますその時までは

世界に対して、小説、映画、音楽について、できるだけ正直に語りたいことを語ろうと思います

形而上学的な銃口と人々の戦争について

 形而上学的な銃口について語ろうと思う。
今日は平成三十一年二月八日。もうすぐ平成が終わろうとしている。まだ新たな元号は明らかになっていないが、読者の諸君には知っているものがいるかもしれない。出来れば、平成のように平和を願うような調和的願いが込められた元号であってほしいと思う。
平成の終わりは、あまりに悲惨な終わりだった。すべてのことが未解決のまま、すべての伏線が回収されないまま、問題を次の元号に渡そうとしているのだからお笑い草だ。バブル初期の人々からしたら、本当に怒られてしまうかもしれない。
 僕がそのような悲観的観測を叩き出したのは平成三十年十月三十一日のハロウィーン暴動事件をニュースで見てからだった。歩行者天国でもない渋谷のスクランブル交差点はその日、人でごった返していた。人気のテーマパークよりも人口密度は高かった。三百人規模のライブハウス並みにぎゅう詰めだった。そこに一台の軽トラックが入ってきて、案の定動けなくなってしまった。しかし、このドライバーは悪くない。特に交通規制が敷かれていたわけではなかったからだ。とにかく、この運の悪いドライバーがはたと困っていると若者の群れが押し寄せて来て、彼に罵声を浴びせ始めた。「俺たちのハロウィーンの邪魔をするな」というわけである。いつからハロウィーンはお前たちみたいな簡単に人を小馬鹿にするような非人間のものになったんだ? まぁ、いい、話を続けよう。彼らは仲間を集めてきて立ち往生している軽トラックをあろうことか数人の力で持ち上げ、九十度回転させてしまった。ドライバーに大きな怪我がなかったのは幸いだったが、その軽トラはガラスが割れて、使い物にならなくなってしまった。つまりは、器物損壊である。一か月ほどしてその実行犯たちは逮捕された。その模様はTwitterに投稿されていたし、目撃証言も防犯カメラの映像もあった。しかし、そこから人物像まで把握し、名前と住所を特定するのはずいぶんと骨が折れただろう。しかし、ここで警察の本気を見せねば、また来年には同じことが起きる。おそらく総力戦だったのだろう。地道な努力によって証拠を確保し、正義が執行された。
僕はその模様をテレビのニュースで知った。というのもこの頃の報道番組は誰かを好んでたたこうとしているようにしか思えない。芸能人が不祥事を起こせば最低でも一週間は同じニュースが一日中流れ続け、専門知識もないようなど素人が特に益体もないような些事につっかかり、それについて永遠不毛な議論を繰り広げる。おおむね、そういうものだったから、このニュースは格好の議論の題材になった。この場合は明確に若者たちは悪者であったわけだから、たたくことに不自由しなかったのだろう。何度も同じような映像を見せられ、何度も不毛な議論を彼らは展開した。
今年のハロウィーンはどうなるのだろうか? 聞くところによれば外国ではさほどハロウィーンは盛り上がらないらしい。仮装してデモみたいにパレードをするのは日本式なんだそうだ。せいぜい、近所の子供がお菓子を貰いに来る、ちょっとお菓子がよく売れる、くらいのものなのだろう。今回の報道を受け、東京都庁と警視庁はハロウィーンパレードの自粛要請やパレード自体の有料化を検討しているようである。それも当然のことだろう。あそこでは明確に”犯罪”が起きたし、それはおおむね見過ごされた。その方がおかしいわけである。
報道の話をしよう。これはあくまで記録的で、かつ主観的な話になる。”報道”というのはある一定の情報を公平に、客観的に世に知らせるために存在している、と中学校の時に習った。しかし、その例として挙げられていた新聞の記事は、少なくとも僕にとっては、あまり客観的には見えなかった。人間が情報を伝える以上は、一定のその人の主観が入る。それを取り除くことはできない、というのが僕の意見で、そのように解答用紙に書いたら×をもらった。僕はその採点には大いに不満を抱いている。今でも。
さて、そのような疑念を抱えながらも僕は報道というものは報道局の努力によってある程度その主観性が排除され、完全ではないにしろ客観性を獲得てしいると信じてきた。その神話が崩壊するのは、平成二十八年一月のことである。ロックバンド「ゲスの極み乙女」のボーカルギター、川谷絵音と芸能人のベッキーが不倫関係にある、と週刊文春が報じた。このころである。報道がおかしくなったのは。
いつまでも、一か月、二か月、三か月とその報道は延々流れ続けた。ベッキーはその報道があってすぐに緊急記者会見を開き、事実を認め、涙の謝罪報告会見となった。そのため、非難は既婚者であった川谷絵音に向けられた。毎日のように特に学のない芸能人が彼を攻め立てた。こき下ろした、といった方が正確だろう。そのとき、バンドのツアー中だった川谷を追うためにライブハウスの入り口を報道陣が取り囲み、コメントを迫った。彼は無言でバンに乗っていった。ライブハウスの関係者がブルーシートをかぶせていたのが印象的だった。彼は犯罪者にでもなったのだろうか? 確かに非道徳的な側面はあっただろう。しかし、なぜ、そこまで報道が彼を追い詰めるのか、よくわからなかった。
川谷絵音は天才だ。家で曲を作るということをしない。まず、スタジオに入って歌詞を考える。僕は実際に彼が一曲をつくる様子を何度かテレビ番組で見た。彼は詞先作曲タイプで何をおいても先に歌詞を考える。それも、スマホでポチポチ打ち込む。五分か十分ほどで歌詞を書き終え、メンバーの下へ行く。ギターを手にし、コードを奏でる。彼はコード理論を知らないし、音感もないので絶対音感のあるピアノ奏者にコードをホワイトボードに書き記してもらう。そうするとすぐにワンコーラスできる。そしたらすぐに音出しをする。バンドで書き記したコードに合わせてセッションしてみる。この段階でボーカルはない。ドラムはこんな感じで、ベースはもっと元気よく、などと指示する。そして、最後になって初めて、書いておいた歌詞を見ながら歌い出す。そのときは二、三回歌ってそれで完成してしまった。ありえないことだ。彼の脳内で何が起きたかを把握するのも難しかった。おそらく、歌詞を書いた時点であらかたのメロディは頭の中で鳴っていて、それに合わせてコードを付け、セッションしているのだと思われるが、天才であることに変わりはない。
バンドはツアーを完走した後、しばらく活動自粛に追いやられる。発売予定だったアルバムも発売延期になった。それは、ある種、天才の芽が摘まれるような瞬間であったのかもしれない。しかし、何にせよ川谷絵音は復帰したし、今では普通にテレビに出る。ショックは受けたみたいだけれど(実際にこのことをモチーフにした曲がいくつもある)、むしろそれを糧に、あるいは武器にして戦ったようだった。完全に天才の芽が摘まれなくてよかったと思う。
さて、このことについて僕が述べたいのは、それから報道番組のありようが一変して、何か事件を起こしたり、失態をしてしまった人たちを愉快犯的に非難する内容にシフトしていった、ということである。今の報道番組は、もちろんすべてではないが、特定の番組はとにかく有名人をたたきたいみたいだし、本人たちがそれを楽しんでいるかどうかは置いておいて、明らかに視聴率目的でそれを行っているということである。そこに客観はない。おおよそ、沼のような薄暗い感情が渦巻く主観的な暗闇が広がっているだけである。
おそらく視聴率は取れているのだろう。だから、三年たってもその手法を変えていない。むしろひどくなっているように感じる。ここで問題にすべきは、そういう番組が好まれるということは、つまりは僕たち視聴者側にもその暗闇が伝染しているということだ。
今の人間、若者、中年、高齢、性別問わず、すべての人間が誰かを非難し、あげつらうことを楽しんでいるような節がある。だからこそ、そうした番組が流行ってしまう。
どうしてこんな時代になってしまったのだろうと頭を抱えたくなる。下手にSNSが台頭してしまったがために個人の発言力は飛躍的に増大し、有名人ではなくともフォロワー数が多ければ政治的な領域にまで踏み込むことができるようになった。もしかしたら、生きていたころの太宰治よりも百万人のフォロワーを抱えていた方が影響力の面では上かもしれない。少なくとも、当時の太宰治は百万部も売れなかったろうし(当時の発行部数で言えば。累計を出せば話が違うだろうが、あくまでも”当時”の話である)、Twitterでは百万人すべてが見ることはないにしろ、リツイートなどで拡散されてもっと爆発的に、百万以上の人がそのツイートを見る可能性だってありうる。
人類は、言葉という武器を磨きすぎた。それは最早、ナイフ、という言葉では表せないほどに凶暴で、凶悪なものとなっているだろう。
人は誰しもその人だけの拳銃を携帯している。そして、簡単に人はその銃口を他人に向ける。彼は自分が相手に銃口を向けていることにすら気づいていない。罪悪感がないのだ。あったとしてもこれは正義なのだと言って拳銃を正当化する。これが現代だ。
銃口を向けられた当人はどうすればいいのであろう。両手を挙げて白旗を揚げるのか? 少なくとも周りにそんな人間はいない。たいていの人は相手と同じように拳銃を所持していて、同じく相手に銃口を向けさせることで対抗する。言葉という拳銃を向けあうわけだ。
そのとき、最初に銃口を向けた彼は、そこで初めて、自分が銃口を向けていたことに気づく。自分が、罪のない人間を殺すところだった、と自覚して冷静になる。そうして、二人は同時に銃口を下すことになる。
しかし、そうでない場合もある。最初に銃口を向けた彼が、個人的悦楽のために人を陥れることができる非人間だった場合、彼はむしろ口元に笑みを浮かべて、迷わず引き金を引くかもしれない。
撃たれた側はどう捉えればいいのだろう。自分は今、とても理不尽な力によってひねりつぶされようとしている。相手は自覚的に自分を殺そうとした。そう、それは殺人である。自分は、悪意によって長く続くかもしれなかった人生に幕を下ろさなければならない。なんと悲劇的で、理不尽で、残酷なことだろう。それでもなお、彼は笑っていた。
以上が、僕が主観的に捉えた現代の実情である。僕には実際にそのような幻視が見える。では、その理不尽な結末にどう立ち向かうか。
僕は思い悩んだ。僕はそもそも非力で、ひ弱で、臆病な性格なのだ。本当は銃だって携帯したくないくらいなのだ。それでも、携帯せざるをえなかった。なぜなら、それがなければ、ストレンジャーだと、変人だと、馬鹿にされるからである。そういう非力な人間ほど世の中の理不尽の格好の餌食となるわけである。そのため、僕は専守防衛として銃を携行しないわけにはいかなくなった。しかし、僕には銃は重すぎた。しかし、ナイフで銃に立ち向かえないように、やはりそれは”銃”でなければいけないのである。
しかし、僕はどうしても人を殺したくない。誰だって良識があるならばそうだろう。そんな罪は背負いたくないわけだ。だから、僕の銃には弾丸が装填されていない。それどころか、しっかりと安全装置にロックがかかっている。つまりは、おもちゃの銃だ。相手に銃口を向けられたとき、僕はあくまで便宜的に銃口を向ける。相手に相手自身の罪を自覚させるために。しかし、相手が凶悪犯だった場合、僕は大人しく殺される覚悟でいる。殺すよりはいい。バン、と弾丸が発射され、それがゆっくりと僕の心臓を穿ち、血を噴出しながら、僕は倒れ伏すだろう。そして、殺人犯となった彼は、僕の死体の見分を始めるはずだ。そこで気が付く。僕の銃弾には、弾薬が入っていないことに。しっかりと安全装置がかかっていたことに。その凶悪犯は僕が銃口を向け返したから、戦意を示したから、それを理由に殺した。あるいはそれが彼にとっての正義なのかもしれない。しかし、それは”まやかし”だったわけである。僕は彼を撃つ気などさらさらなかった。そこで凶悪犯は自分が罪のない人間を殺してしまったことを自覚する。つまり、これはこの世界に対する自爆行為であり、自傷行為であり、大いなるアンチテーゼなのである。僕は文字通り身をもってその悪を糺そうというわけである。
しかしながら、僕はまだこのやり方にいまいちピンと来ていない。だって、まるでフランス映画みたいに救いがないんだもの。僕としてはそもそも戦いたくない、銃口を向けたくもないし、銃自体を捨てたいわけだ。しかし、前述のとおり銃を持っていないことによって銃口を向けられることもしばしばある。このようなアンチテーゼにぶつかった人は案外多いのではないだろうか。
人を傷つけることは罪だ。でも人間はそもそも誰かを傷つけずにはいられないのである。傷つけることによって自分がここにいることを、あるいは相手の中に確かに自分がいたことを、認識するのである。人間の存在自体が罪なのかもしれない。この世界こそが”地獄”なのかもしれない。だって、神様はこんな残酷な世界を創造しないだろうから。
 ここは地獄かもしれない。人間は存在自体がクズなのかもしれない。それでもクズはクズなりに生きたい、生きたいと願ってしまうのである。果たしてそれは罪なのだろうか。僕はそうは思わない。僕たちは地獄に生まれついた、オーケー、それでもいい。でも、僕らには変わらずに生き続ける権利がある。それは絶対不変で何人たりとも犯せない絶対の”法”だ。誰かがその法を破ったときにのみ、人は傷つけることを許容される。そのときには怒っていい。怒鳴っていい。殴り飛ばしていい。そして、その人とは縁を切るべきだ。そもそも相手は自分を必要としていないのだから、切り捨てて当然だ。
人々が当たり前のように銃を向けあう世界。簡単に人の権利を迫害してしまえる世界。そんなものは間違っている。だから、この文章でさえ、間違っているのだ。この文章は、”弾丸”に相違ないのだから。
そんな残酷な世界。人々の間にそれぞれの戦場が広がる世界。どうだ、これが平成の終わりだ。絶望的だね、少なくともこんな状況で次の元号に時代を明け渡さなくてはならないなんて考えもしなかった。
それでも僕たちは生きなければならない。生きること、それがたった一つの希望であり、唯一信じられるあなたにとっての”正義”だ。どうか胸を張って生きてもらいたい。しかして、この文章について少しでも考えてもらいたい。批判してもいいし、非難してもいい。でも、頭の中の隅にどうか、記憶しておいてもらいたいのである。いつか、その記憶を取り出して、少しでも考える時間をつくっていただけたなら、僕は光栄に思う。
最後に、これから生まれてくる子供たち、そしてこれから思春期を迎える少年少女たち。こんな時代にしてしまって本当に申し訳ないと思う。僕たちが糺すべき悪だった。しかし、僕らは理不尽というものに狡猾に騙されたり、あるいはそもそも自立的に考えるということを怠った結果、君たちに次の世代を担わせようとしている。本当にすまない。弁解の余地もない。これは糺すことのできる悪だったし、僕たちにはそれができたはずだ。これは明らかに僕たちの怠慢だし、努力不足だ。だが、忘れないでいただきたいのは、あなたたちは自分が生きたいから生きているということである。親が生んだからとか、そういうことは関係ない。あなたがたが一日一日を生きたいと思えばこそ、そこに希望が芽生える。生きたいと望むことはなんにも悪いことじゃあない。あなたがたにはその権利があるし、その権利を損なうものに対して正義を執行する権利がある。反抗していいのだ。生きるためなら人を傷つけてもいい。だから、どうか、明日も生きてくれ。それだけだ。
新たな時代が、人々の戦争を終結に導くことを、切に願ってこの文章を終えたいと思う。

ミュンヘン・バッハ管弦楽団ミュンヘン・バッハ合唱団によるバッハ:マタイ受難曲を聴きながら
  
                 平成三十一年二月八日二十一時より世界へ向けて